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中森明菜と近藤真彦に一体何があった?出会いから金屏風事件まで網羅

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80年代を彩ったトップアイドル、中森明菜さんと近藤真彦さん。当時、多くのファンが二人の関係に注目していました。歌番組での共演をきっかけに始まったとされる交際は、映画での共演などを経て、約6年間続いたと言われています。

しかし、その間には、近藤真彦さんと松田聖子さんの密会報道や、結婚に対する考え方のすれ違い、金銭トラブルの噂など、様々な出来事がありました。

そして、芸能史に残る衝撃的な「金屏風事件」へと繋がっていきます。中森明菜さんと近藤真彦さんの間に、一体何があったのでしょうか?

この記事では、二人の出会いから破局、そして世間を騒がせた金屏風事件の真相まで、当時何があったのかを詳しく解説していきます。

この記事の要点
  • 二人の出会いから約6年間の交際経緯
  • 交際中に起きたトラブルや考え方の違い
  • 金屏風事件の全貌と会見の衝撃的な内容
  • 事件が二人の関係と活動に与えた影響

中森明菜と近藤真彦の交際:何があったのか?

80年代を彩ったトップアイドル、中森明菜さんと近藤真彦さん。歌番組での共演をきっかけに始まった二人の交際は、当時大きな注目を集めました。映画での共演を経て関係を深めたと言われる一方で、様々な報道やすれ違いも伝えられています。

6年間に及んだとされる二人の交際期間中、具体的にどのような出来事があったのでしょうか。ここでは、出会いから関係性の変化、そして報じられたトラブルの噂まで、二人の間に「何があったのか」を詳しく見ていきます。

出会いは歌番組での共演

中森明菜さんと近藤真彦さんの出会いは、当時人気を博していた歌番組での共演がきっかけでした。

80年代、二人は日本の音楽シーンを牽引するトップアイドルとして、数々のヒット曲を世に送り出していました。そのため、TBS系の「ザ・ベストテン」やフジテレビ系の「夜のヒットスタジオ」といった主要な音楽番組で顔を合わせる機会が頻繁にあったのです。多忙なスケジュールの中で、同じ業界で活躍する者同士、自然と親交を深めていったのでしょう。

番組内での共演シーンは、当時のファンにとっても注目の的でした。互いに意識し合いながらも、プロフェッショナルとしてパフォーマンスを披露する姿は多くの人々を魅了しました。

このように、華やかなテレビの世界での出会いが、後に大きな注目を集めることになる二人の関係の始まりとなったのです。共演を重ねるうちに、単なる仕事仲間以上の感情が芽生えていったのかもしれません。

トップアイドル同士の6年間の交際

二人の交際は、約6年間続いたと言われています。これは、1983年頃から始まり、1989年のいわゆる「金屏風事件」に至るまでの期間を指します。

トップアイドル同士という特別な立場でありながら、長期間にわたって関係が続いた背景には、互いに強く惹かれ合うものがあったと考えられます。当時の二人は、出す曲すべてが大ヒットするほどの絶大な人気を誇っていました。

しかし、その人気ゆえに、常に世間の注目を浴び、プライベートな時間を持つことも難しかったはずです。

多忙なスケジュール、マスコミによる過熱報道、そしてファンの目。これらは、若い二人にとって大きなプレッシャーだったに違いありません。

そうした厳しい環境の中でも関係を維持できたのは、互いを支え合い、理解し合える特別な存在だったからではないでしょうか。ただ、その特殊な環境が、後に関係に影を落とす一因になった可能性も否定できません。

映画共演で深まった二人の関係

二人の関係をより一層深めるきっかけとなったのが、1985年に公開された映画「愛・旅立ち」での共演です。

この映画で、中森明菜さんと近藤真彦さんは恋人役を演じました。劇中での親密なシーンはもちろんのこと、撮影期間を通じて長い時間を共に過ごしたことが、二人の距離を縮めたと言われています。役柄として恋人同士を演じる中で、現実の感情もより深まっていったのかもしれません。

映画のプロモーション活動などでも二人揃って登場する機会が増え、その仲睦まじい様子は多くのファンをやきもきさせました。仕事という公の場でありながら、互いへの特別な感情が垣間見える瞬間もあったようです。

このように、映画共演は、単なる仕事の枠を超えて、二人の関係性をより親密なものへと発展させる重要な出来事となりました。公私ともにパートナーとしての絆が強まった時期と言えるでしょう。

近藤真彦と松田聖子の密会報道とは

中森明菜さんとの交際期間中であった1989年2月、近藤真彦さんと、当時ライバル的存在とも言われた松田聖子さんとのニューヨークでの密会が写真週刊誌によって報じられました。

この報道は、芸能界に大きな衝撃を与えました。なぜなら、近藤さんは中森さんと公認のカップルと見られており、一方の松田さんも別の俳優との交際が噂されていた時期だったからです。報道された写真には、二人が親密そうにしている様子や、キスをしているとされる場面も含まれており、その内容は非常にセンセーショナルなものでした。

このスキャンダルは、中森明菜さんにとって計り知れないほどの精神的ショックを与えたと言われています。信頼していた恋人の裏切りとも取れる行動は、彼女の心を深く傷つけたことでしょう。

この密会報道が、後述する金屏風事件へと繋がる伏線の一つになったと見る向きも少なくありません。二人の関係に決定的な亀裂を入れる出来事だった可能性があります。

結婚に対する考え方のすれ違い

中森明菜さんと近藤真彦さんの間には、結婚に対する考え方に違いがあったとされています。これが、二人の関係が破局に向かう一因になった可能性が指摘されています。

報道などによると、中森明菜さんは近藤真彦さんとの将来、つまり結婚を真剣に望んでいたと言われています。家族への憧れが強く、安定した関係を求めていたのかもしれません。彼女自身、周囲に結婚願望を語っていたという話も伝わっています。

一方、近藤真彦さんの方は、当時まだ若く、アイドルそしてレーサーとしての活動に情熱を注いでおり、結婚に対しては積極的ではなかった、あるいは時期尚早と考えていた可能性があります。

具体的な結婚の意思表示がなかったことが、中森さんを不安にさせたのかもしれません。このように、将来に対するビジョンのずれが、二人の間に溝を生み、関係の継続を難しくした側面があったのではないでしょうか。

金銭トラブルの噂とその背景

二人の関係を語る上で、金銭的なトラブルがあったという噂も根強く存在します。ただし、これらはあくまで噂の域を出ず、真相は明らかになっていません。

具体的には、中森明菜さんが結婚資金として貯めていたとされる多額のお金を近藤真彦さんに貸した、あるいは渡したのではないか、という話があります。そして、近藤さんがそのお金を自身のレース活動の資金などに流用したのではないか、といった憶測が流れました。また、マンションの購入を巡るトラブルがあったという報道も一部で見られました。

これらの金銭トラブルの噂が事実であった場合、二人の信頼関係に深刻な影響を与えたことは想像に難くありません。お金の問題は、たとえ親しい間柄であっても、関係をこじらせる大きな要因となり得ます。

しかし、繰り返しますが、これらは公に証明された事実ではなく、当時の様々な情報が錯綜する中で生まれた噂話である可能性も十分にあります。その真偽は、当事者のみが知るところです。

金屏風事件の真相:中森明菜と近藤真彦に何があった?

芸能史に残る衝撃的な出来事として記憶されている「金屏風事件」。中森明菜さんと近藤真彦さんの関係性を語る上で、この事件は避けて通れません。多くの人が婚約発表と期待した記者会見は、なぜ異例の謝罪会見となったのでしょうか。

そして、その直前に起きた痛ましい出来事の背景には何があったのでしょう。ここでは、世間を騒がせた金屏風事件の真相と、その後の二人の関係にどのような影響を与えたのか、当時の状況を振り返りながら詳しく解説します。

近藤真彦宅での衝撃的な自殺未遂

1989年7月11日、日本中に衝撃が走る出来事が発生しました。中森明菜さんが、当時交際していた近藤真彦さんの自宅マンションの浴室で手首を切って自殺を図ったのです。

この痛ましい事件の背景には、様々な要因が複雑に絡み合っていたと考えられています。前述の通り、近藤真彦さんと松田聖子さんのニューヨークでの密会報道は、中森さんにとって計り知れないショックを与えたことでしょう。

加えて、結婚に対する考え方のすれ違いや、金銭トラブルの噂なども、彼女を精神的に追い詰める要因となった可能性があります。トップアイドルとしてのプレッシャーや孤独感も、決して無関係ではなかったはずです。

幸いにも、異変に気づいた近藤さんによって早期に発見され、病院に搬送されたことで一命は取り留めました。

しかし、この事件は、彼女が抱えていた苦悩の深さを世間に知らしめるとともに、二人の関係が極めて危機的な状況にあったことを示す決定的な出来事となりました。多くのファンが、彼女の身を案じ、事態の推移を見守りました。

異例の金屏風前での謝罪会見

自殺未遂事件から約5ヶ月後の1989年12月31日、大晦日の夜に、事態はさらに異例の展開を見せます。中森明菜さんと近藤真彦さんが揃って緊急記者会見を開いたのです。

通常、年末の慌ただしい時期に、しかもこれほど注目を集める二人が揃って会見を開くこと自体が異例でした。さらに世間を驚かせたのは、会見場に「金屏風」が立てられていたことです。金屏風は、一般的に婚約発表や結婚披露宴など、おめでたい席で用いられるものです。そのため、多くのマスコミ関係者やファンは、「ついに二人が婚約を発表するのではないか」と大きな期待を寄せました。

しかし、結果的にこの金屏風は、祝福ムードとは程遠い、重苦しい会見の背景として記憶されることになります。なぜ金屏風が用意されたのか、その意図については様々な憶測が飛び交いましたが、明確な理由は今もって不明な点が多いです。この演出が、会見の内容とのギャップを際立たせ、後々まで語り継がれる「金屏風事件」と呼ばれる所以となりました。

婚約発表ではなかった会見の内容

多くの人々が固唾を飲んで見守った金屏風前の記者会見でしたが、その内容は、大方の予想や期待を大きく裏切るものでした。

会見の口火を切ったのは中森明菜さんでした。彼女はまず、自身の起こした自殺未遂騒動について、「大変ご迷惑をおかけしました」と涙ながらに謝罪しました。

そして、第一発見者であり、支えてくれた近藤真彦さんに対して感謝の言葉を述べました。終始うつむき加減で、か細い声で語る彼女の姿は痛々しく、決して晴れやかな婚約発表の雰囲気ではありませんでした。

一方、隣に座った近藤真彦さんは、中森さんを気遣う様子を見せつつも、二人の関係については「(明菜さんとは)友人として支えていきたい」「結婚ということは全くありません」といった趣旨の発言に終始しました。

結局、この会見は婚約発表どころか、むしろ二人の恋愛関係の終焉を宣言する場、そして一連の騒動に対する謝罪と釈明の場という意味合いが強いものとなったのです。

会見後の二人の破局とその影響

異例づくめの金屏風会見をもって、中森明菜さんと近藤真彦さんの6年間に及んだとされる恋愛関係は、完全に終わりを迎えました。

この一連の出来事は、特に中森明菜さんにとって、計り知れないほどの精神的ダメージとなりました。会見後、彼女は心身の不調から芸能活動を長期にわたって休止せざるを得なくなります。かつての輝きを取り戻すまでには、長い時間と葛藤が必要でした。トップアイドルとして築き上げてきたキャリアにも、大きな影響が出たことは言うまでもありません。

一方の近藤真彦さんは、この会見の翌年に別の一般女性との婚約を発表し、結婚に至ります。歌手やレーサーとしての活動は継続しましたが、「金屏風事件」における彼の言動については、後々まで様々な批判や憶測を呼ぶこととなり、イメージダウンは避けられませんでした。

この事件は、80年代を代表する二人のトップアイドルの人生を大きく変える転換点となり、日本の芸能史における特異な出来事として、今なお多くの人々の記憶に深く刻まれています。

まとめ:中森明菜と近藤真彦に何があった?について

ソニーミュージックエンタテインメント
  • 中森明菜と近藤真彦は80年代を代表するトップアイドルである
  • 二人の出会いは歌番組での共演がきっかけだ
  • 交際は約6年間(1983年頃~1989年)続いたとされる
  • 人気ゆえに常に世間の注目とプレッシャーに晒された
  • 1985年の映画「愛・旅立ち」共演で関係が深まった
  • 映画では恋人役を演じ、公私ともに絆が強まった時期であった
  • 1989年2月、近藤真彦と松田聖子のNY密会が報道された
  • 密会報道は中森明菜に大きな精神的ショックを与えた
  • 二人の間には結婚に対する考え方の違いがあったとされる
  • 中森明菜は結婚を望んでいたが、近藤真彦は消極的だった可能性がある
  • 金銭トラブルの噂も存在したが真相は不明である
  • 結婚資金やレース資金に関する憶測が流れた
  • 1989年7月、中森明菜が近藤真彦宅で自殺未遂を図った
  • 近藤真彦が発見し、中森明菜は一命を取り留めた
  • 自殺未遂の背景には密会報道や結婚観の相違などが考えられる
  • 1989年大晦日、二人は金屏風の前で緊急記者会見を開いた
  • 会見は婚約発表ではなく謝罪と関係性の説明が主だった
  • 会見で近藤真彦は結婚を否定し友人関係を強調した
  • この会見をもって二人の恋愛関係は完全に終焉した
  • 中森明菜は事件後、長期の活動休止を余儀なくされた
  • 近藤真彦は会見翌年に一般女性と結婚した
  • 金屏風事件は近藤真彦のイメージにも影響を与えた
  • この一連の出来事は二人の人生の転換点となった

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まさやん
まさやん
トリビアラボ編集者
万年ツラツラと気になることを調べては書き起こす雑記ブログを運営しています。気になることは調べないと気がすまない性分。ほかでもブログ運営をしていて8年ほど続けています。何か少しでもお役立ちになれば幸いです。
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